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空中紳士

1928(昭和3)年2月~9月

 その都のいわば銀座通りの裏町に、シセリヤというカフェがある。この物語はそのカフェのほの暗い一隅から説起すのが最も適当である。

 

 沢山の衝立ようのもので仕切られ、出来る限り灯光を覆い隠したそこの客席の最も奥まった一隅に、二人の青年が低声に語り合っていた。

 

 彼等は二重釦の短い上衣に、裾の広いパンツという、モダン好みの身なりをした、いずれ劣らぬ美しい青年達であったが、注意深い観察者は、彼等の一人が、見るがごとき豊頬の美少年ではなくて、実はその大型のハンチングの中に、渦巻く黒髪を押し隠した、年若い婦人であることに気付いたかも知れない。誠にその通りで、この青年こそ今都に名の高い、朝陽新報の名婦人記者星野龍子の変装姿に他ならぬのだ。相手の青年は、これは本当の男に相違ないのだが、星野龍子の数多い男友達の一人で、学校を出て外務省の腰弁になったばかりの、言ってみれば見習外交官なので、名前は平山松太郎という、外務省の御役人というよりは、ダンスのうまいナイスボーイとして、ある方面では名を売っている青年。いうまでもなく異性としての龍子の魅力にひきつけられて、むしろ彼女を渇仰している一人なのである。従って、二人の関係は、一見年少に見える龍子の方が一枚上にいて、何かにつけて相手を子供扱いにしているといった調子が見えている。

 

 もう夜も更けて、やがてカフェの店を閉じるに間もない時刻である。入口に近いテーブルにたった一人残っている外には、客も殆ど帰り尽した。その夜更けに女の身で、若い男とこんな場所で話込んでいるというのは職業柄とはいえ、もし彼女が男姿に変装していなかったなら、誠に妙な感じがしたに相違ない。だから、彼女はそれを心得て、カフェなどで夜更かしをする場合には、昼間の職業上の変装を、わざと解かないでいる訳なのだが。

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