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断崖

1950(昭和25)年3月~
 春、K温泉から山路をのぼること一哩、はるか眼の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。
 
女 「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」

男 「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」

女 「じゃあ、はじめるわ。……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの仲で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ?」

男 「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは詳しく聞きたくない。君の露出狂のお相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」

女 「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あなたおいやなら、はしょって話すわ。……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合って泣いていた時に、ふと、あたし、アラ、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもより烈しくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれ上がった目の中をのぞきこんだ」

男 「スリルだね。閨房の蜜語が忽ちにして恐怖となる。君はその時、あの男の目の仲に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」
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