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1931(昭和6)年11月~

 探偵小説家の殿村昌一は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。

 

 S村は四方を山にとざされ、殆ど段畑ばかりで暮しを立てている様な、淋しい寒村であったが、その陰鬱な空気が、探偵小説家を喜ばせた。

 

 平地に比べて、日中が半分程しかなかった。朝の間は、朝霧が立ちこめていて、お昼頃ちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。

 

 段畑が鋸型に喰い込んだ間々には、如何に勤勉なお百姓でも、どうにも切り開き様のない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに這い出していた。

 

 段畑と段畑が作っている溝の仲に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪な大蛇の様に、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起して汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配に喘いで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。

 

 山家の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷々とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。この陰鬱な山や森や段畑や鉄道線路とも又暫くお別れだ。青年探偵小説家は、二月余り通り慣れた村の細道を、一本の樹、一莖の草にも名残を惜みながら歩いていた。

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