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日記帳

「写真報知」報知新聞社、1925(大正14)年3月5日
 ちょうど初七日の夜のことでした。私は死んだ弟の書斎に入って、何かと彼の書き残したものなどを取出しては、ひとり物思いにふけっていました。
 
 まだ、さして夜もふけていないのに、家中は涙にしめって、しんと鎮まり返っています。そこへ持って来て、何だか新派のお芝居めいていますけれど、遠くの方からは、物売りの呼声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。私は長い間忘れていた、幼い、しみじみした気持になって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰ひろげて見ました。
 
 この日記帳を見るにつけても、私は、恐らく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。
 
 内気者で、友達も少かった弟は、自然書斎に引こもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は十分うかがうことが出来ます。そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する煩悶だとか、彼の年頃にはたれでもが経験するところの、いわゆる青春の悩みについて、幼稚ではありますけれど如何にも真摯な文章が書きつづってあるのです。
 
 私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とペイジをはぐって行きました。それらのペイジには到るところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい目が、じっと私の方を見つめているのです。
 
 そうして、三月九日のところまで読んでいった時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫び声を発した程も、私の目をひいたものがありました。それは、純潔なその日記の文章の仲に、始めてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。そして「発信欄」と印刷した場所に「北川雪枝(葉書)」と書かれた、その雪枝さんは、私もよく知っている、私達とは遠縁に当る家の、若い美しい娘だったのです。
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