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接吻

「映画と探偵」映画と探偵社、1925(大正14)年12月
 近頃は有頂天の山名宗三であった。何とも言えぬ暖かい、柔かい、薔薇色の、そして薫のいい空気が、彼の身辺を包んでいた。それが、お役所のボロ机に向って、コツコツと仕事をしている時にでも、さては、同じ机の上でアルミの弁当箱から四角い飯を食っている時にでも、四時が来るのを遅しと、役所の門を飛び出して、柳の街路樹の下を、木枯の様にテクついている時にでも、いつも彼の身辺にフワフワと漂っているのであった。
 
 というのは、山名宗三、この一月ばかり前に新妻を迎えたので、しかも、それが彼の恋女房であったので。
 
 さてある日のこと、例の四時を合図に、まるで授業の済んだ小学生の様に帰り急ぎをして、課長の村山が、まだ机の上をゴテゴテ取片づけているのを尻目にかけて、役所を駈け出すと、彼は真一文字に自宅へと急ぐのであった。
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