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ぺてん師と空気男

1959(昭和34)年11月

第(1)章「空白の書籍」より
 

 わたしは横浜駅で、早くも駅弁とお茶を買った。わたしは駅弁が大好物なのである。あの折詰めの固いごはんに、固い煮肴、卵焼き、かまぼこ、牛肉、蓮根、奈良漬などの、普通の人には少しもうまくない駅弁が大好きなのだ。だから、汽車にのると、時分どきでなくても、何度でも駅弁を買ってたべるくせがある。駅弁がたべたいために汽車にのるのだといってもよいほどである。それも鰻丼や鯛飯や洋食弁当ではなくて、あの折詰め弁当に限るのだ。

 

 弁当をゆっくりたべおわって、折の底にのこっている飯粒を、一つ一つ拾うようにして口に入れてから、空になった折箱を包み紙でくるんで座席の下へほうりこむと、さて、顔を上げて車内の風景を見わたすのであったが、ふと、隣席の奥さんの目が、わたしの前の黒ずくめの紳士の膝のへんに、釘着けになっているのに気がついた。紳士の膝の上に、なんだか途方もないことがおこっていたのである。

 

 紳士は膝の上に一冊の本をひろげて、うつむいて読んでいるのだが、その本の頁に活字が印刷されていなかった。開いた頁が両方とも全く空白なのである。隣の奥さんも、それを怪しんで、あんなに見つめていたことがわかった。わたしの目だけが、どうかしていたのではない。

 

 わたしがそれに気づいたことを知って、奥さんが、わたしを見た。目と目がぶつかった。
 

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