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人間椅子

「苦楽」プラトン社、1925(大正14)年10月号
 佳子は、毎朝、夫の登庁を見送って了うと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠こもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。

 美しい閨秀作家としての彼女は、此頃では、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。

 今朝とても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先ず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。

 それは何れも、極り切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣いから、どの様な手紙であろうとも、自分に宛られたものは、兎角も、一通りは読んで見ることにしていた。

 簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貰っていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題丈けでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。

 それは、思った通り、原稿用紙を綴とじたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。そして、持前もちまえの好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。
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