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空気男 [未完作品]

1926(大正15)年1月~
 北村五郎と柴野金十とが、始めてお互の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程変わっているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。
 
 それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを口吟んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の節ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のことだ、平常の内気者にも似合わず、大胆にこんなことをいったものである。

「お隣のお方、何かお話でもしようじゃありませんか。僕も退屈して弱っているのですよ」

 すると、隣の部屋では、パッタリと歌声が止って、しばらくはこちらの様子をうかがっている塩梅であったが、やがて、

「僕ですか」
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