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1929(昭和4)年9月~
 この話は、柾木愛造と木下芙蓉との、あの運命的な再会から出発すべきであるが、それについては、先ず男主人公である柾木愛造の、いとも風変りな性格について、一言して置かねばならぬ。
 
 柾木愛造は、既に世を去った両親から、幾何の財産を受継いだ一人息子で、当時二十七歳の、私立大学中途退学者で、独身の無職者であった。ということは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望の的である所の、この上もなく安易で自由な身の上を意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯を楽しんで行くことが出来なかった。彼は世に類もあらぬ厭人病者であったからである。
 
 彼のこの病的な素質は、一体全体どこから来たものであるか、彼自身にも不明であったが、その徴候は、既にすでに、彼の幼年時代に発見することが出来た。彼は人間の顔さえ見れば、何の理由もなく、眼に一杯涙が湧き上がった。そして、その内気さを隠す為に、あらぬ天井を眺めたり、手の平を使って、誠に不様な恥かしい格好をしなければならなかった。隠そうとすればする程、それを相手に見られているかと思うと、一層おびただしい涙がふくれ上がって来て、遂には
「ワッ」と叫んで、気違いになってしまうより、どうにもこうにも仕方がなくなる。といった感じであった。
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