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芋虫

1929(昭和4)年1月
「今行きますよ。おなかがすいたでしょう」

 時子は、相手に聞えぬことは分っていても、いつもの癖で、そんなことを言いながら慌てて台所口に駆け込み、すぐそこの梯子段を上って行った。
 六畳一間の二階に、形ばかりの床の間がついていて、そこの隅に台ランプと燐寸が置いてある。彼女は丁度母親が乳飲児に言う調子で、絶えず「待遠だったでしょうね。すまなかったわね」だとか「今よ、今よ、そんなに言っても真暗でどうすることも出来やしないわ。今ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」だとか、色々な独言を言いながら。(と言うのは、彼女の夫は少しも耳が聞えなかったので)ランプをともして、それを部屋の一方の机のそばへ運ぶのであった。
 
 その机の前には、メリンス友禅の蒲団を括りつけた、新案特許何とか式坐椅子というものが置いてあったが、その上は空っぽで、そこからずっと離れた畳の上に、一種異様の物体が転がっていた。その物は、古びた大島銘仙の着物を着ているには相違ないのだが、それは、着ているというよりも包まれていると言った方が、或はそこに大島銘仙の大きな風呂敷包が放り出してあると言った方が、当っている様なまことに変てこな感じのものであった。
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