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押絵と旅する男

「新青年」博文館、1929(昭和4)年6月
 この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違った別の世界を、チラリと覗のぞかせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかも知れない。

 いつとも知れぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。その時、私は態々魚津へ蜃気楼を見に出掛けた帰り途であった。私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。そう云われて見ると、私は何時の何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。それではやっぱり夢であったのか。だが私は嘗て、あのように濃厚な色彩を持った夢を見たことがない。夢の中の景色は、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あの折の汽車の中の景色丈けは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂の勝った色彩で、まるで蛇の眼の瞳孔の様に、生々しく私の記憶に焼ついている。着色映画の夢というものがあるのであろうか。

 私はその時、生れて初めて蜃気楼というものを見た。蛤の息の中に美しい龍宮城の浮んでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、膏汗のにじむ様な、恐怖に近い驚きに撃たれた。
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