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白髪鬼

1931(昭和6)年4月~
第(5)章「暗黒世界」より

 皆さん、人間の本能というものは恐ろしい。棺の中にいると悟ると、わしの手足に、死物狂いの怪力が、湧くが如くに集まって来た。必死の時には、必死の力が出るものだ。今この棺を破らねば、折角甦ったわしの命は、一時間も、三十分も、いや十分でさえ保たぬ。棺内の酸素が殆どなくなっていたからだ。わしは、水を離れた鮒の様に、口をパクパクやりながら、窒息して死んでしまわねばならぬからだ。

 わしは頑丈な棺の仲で、猛獣の様に跳ね回った。だが、なかなか板は破れぬ。その内に空気は益々乏しくなり、息がつまるばかりか、目は眼窩の外へ飛び出すかと疑われ、鼻から口から、血潮が吹き出す程の苦しさだ。

 わしはもう、無我夢中であった。板を破るか、我身が砕けて死ぬかだ。空気の欠乏の為に、ジリジリと死んで行くより、一思いに砕け死ぬのが、どれ程ましか知れぬとばかり、わしは死物狂に荒れに荒れた。

 すると、アア有難い。棺の蓋がメリメリと破れる音がしたかと思うと、刃物の様な鋭い空気が、スーッと吹入って、冷たく頬に当った。アア、その空気の甘かったこと。
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