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蜘蛛男

1929(昭和4)年8月~
 Y町(無論東京である)に関東ビルディングという、個人の経営する、大して大きくない貸事務所がある。ある朝のこと、そのビルディングの事務所へ、一人の立派な紳士が這入って来た。事務員が名刺を受取って、見ると、『美術商、稲垣平造』とあった。稲垣氏は、太い籐のステッキに、寄りかかる様にして、白いチョッキの胸の白い鎖をもてあそびながら、

「部屋が空いていたら、借り度いのだが」と、横柄な調子で云った。関東ビルディングは場所がよいのと、室代が低廉なので、仲々繁昌していたが、どうしたものか、たった一つ丈け妙に借手のつかぬ部屋があった。経営者は、御幣をかついで、十三号という番号が悪いのかも知れぬからというので、その番号をあき番にして、全部の室番を換えてしまおうかとさえ考えていた。今も丁度十三号室丈けがあいていた。

「十三号」と繰返して、稲垣氏はニヤリと妙な笑い方をしたが、「十三号結構。では今日直ぐに荷物を運ばせるから」と即座にふくらんだ蟇口を開いて、敷金と一ケ月分の室代とを支払った。ビルディングは御役所ではないから、借主の身元調査もしなければ、戸籍謄本も要求せず、保証人さえも不用である。ただ相当の風采とお金さえあれば、どこの馬の骨であろうと、いつ何時でも部屋が借りられるのだ。
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