top of page

影男

1955(昭和30)年1月~

第(13)章「底なし沼」より

 

 そして、十歩ほど走ったとき、恐ろしい異変が起った。比佐子のハイヒールの足が動かなくなった。白い砂の中へ、吸いこまれるように、引きつけられて、歩けなくなった。

 

 足を抜こうとして、一方の足に力を入れると、その足の方がさらに深く吸いこまれた。双眼鏡の中に、彼女の驚きの表情がハッキリ見える。だが、彼女はまだ怖がってはいない。ただ驚いているばかりだ。

 

 彼女はしきりに手を振って、足を抜こうともがいた。しかし、もがけばもがくほど、グングン足がはまりこんで行く。もう膝の近くまで砂の中に入ってしまった。こうなっては、足をあげようとしても、あがるものではない。足首を固く縛られて、地の底へ引き入れられているのも同然だ。

 

 やっと彼女は悟った様子である。そこが何の足がかりもない底なしの泥沼であることを悟った様子である。彼女の顔が恐怖にゆがんだ。目がとび出すほど見ひらかれ、口が大きくひらいた。そして、その口から叫び声がほとばしった。何を叫んでいるのかわからないが、もう一人の女に救いを求めているのであろう。

 

 だが、つい目の先に倒れている年増女は、比佐子を助けようともしなかった。双眼鏡をその顔に向けると、彼女がニタニタ笑っていることがわかった。さも小気味よげに笑っていて、立ち上がろうともしないのだ。

朗読はこちらから!
乱歩朗読9.gif
bottom of page