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偉大なる夢

1943(昭和18)年11月~

 世界の国という国がその総力をかたむけ、大地球の全面をゆるがして戦いつつある時、日本国の威力が東半球を風靡し、つい四五年前までの国民には架空の夢でしかなかった偉大なる事業が、いま彼等の眼前に実現されつつある時、前線の勇士達は、その一人一人が神となって今の世の神話を創造しつつある時、聖戦完遂の心臓部、日本陸軍省はひねもす夜もすがら、頼もしく力強き搏動をつづけていた。

 

 この巨大なる心臓は、些々たる戦況に一喜一憂することなく、如何なる場合にも冷静にがっしりと規則正しく脈搏っていたが、しかし極めて稀には、大いなる憂い、大いなる喜びのために、その鼓動を早めることがないとは言えなかった。陸軍大臣官房の少年給仕高橋喜一は、少年の敏感さをもって、時としてこの巨大なる脈搏の変調を直感することがあった。

 

 今日も、高橋少年はその変調をひしひしと身に感じていた。実にただならぬ気配であった。真珠湾攻撃の歴史的報告がもたらされた時、昭南島攻略、コレヒドール攻略の快報に接した時、巨人の心臓も流石に大きく脈搏ったのであるが、今日の気配はそれらとは全く種類を異にし、しかもそれらの場合と同じほどの、或はそれ以上の重大性を持っているかに直感せられた。もしかしたら、これは喜びの胸騒ぎではなくて、大いなる憂いのためのものではないのかと、一少年給仕すら、全身に脂汗の流れるような興奮を覚えたのである。午後三時頃から、大臣室に隣りする小会議室に何かしら極めて重大な秘密会議が開かれていた。高橋少年はこの種の会議は列席者が少なければ少ないほど、却って重大であることをよく知っていたが、今日の会議の列席者はごく少数であった上に、その顔振れが日頃の省内の会議などとは全く違っていることが、先ず彼に異様な感じを与えたのである。

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