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妖虫
1933(昭和8)年12月~
第(1)章「青眼鏡の男」より
「マア、先生、何をそんなに見つめていらっしゃるの」
珠子がふとそれに気付いて声をかけた。
その時は、もう食事が終って、コーヒーが運ばれていたのだが、京子はそれを取ろうともせず、なぜか異様に緊張した表情で、食堂の向うの隅を、じっと見つめていた。
その隅には、二人の中年の紳士が向合っていて、その一人の大きな青眼鏡をかけた口髭のある男の顔が、こちらからは真正面に見えるのだ。外にも五組程の客があったけれど、それらは皆外国人の男女であった。
「先生、あの人を知っているんですか」
相川青年も妹の加勢をして訊ねた。
「イイエ、そうではないんですけれど、ちょっと黙っていらっしゃいね」
家庭教師は、目はその方を見つづけたまま、手真似をして二人を黙らせたが、帯の間から金色をした小型のシャープ鉛筆を取出し、そこにあったメニュの裏へ、何か妙な片仮名を書き始めた。
「アスノバン十二ジ」
京子はその青眼鏡の男から視線をそらさず、手元を見ないで鉛筆を動かすものだから、仮名文字はまるで子供の書いた字の様に、非常に不明瞭であったが、兄妹はメニュを窺き込んで、やっと判読することが出来た。
「何を書いているんです。それはどういう意味なのです」
相川青年が思わず訊ねると、京子はソッと左手の指を口に当てて、目顔で「黙って」という合図をしたまま、又青眼鏡の男を見つめるのだ。
暫くすると、鉛筆がタドタドしく動いて、又別の仮名文字が記された。
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