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孤島の鬼

1929(昭和4)年1月~
 私はまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らず真白になっている。この様な不思議な人間が外にあろうか。嘗て、白頭宰相と云われた人にも劣らぬ見事な綿帽子が、若い私の頭上にかぶさっているのだ。私の身の上を知らぬ人は、私に会うと第一に私の頭に不審の目を向ける。無遠慮な人は、挨拶がすむかすまぬに、先ず私の白頭について[いぶかしげに質問する。これは男女に拘らず私を悩ます所の質問であるが、その外にもう一つ、私の家内と、極く親しい婦人丈けが、そっと、私に聞きにくる疑問がある。少々不躾に亙るが、それは私の妻の腰の左側の腿の上部の所にある、恐ろしく大きな、傷の痕についてである。そこには不規則な円形の、大手術の跡かと見える、むごたらしい赤あざがあるのだ。

 この二つの異様な事柄は、併し、別段私達の秘密だと云う訳ではないし、私は殊更にそれらのものの、原因について語ることを拒む訳でもない。ただ、私の話を相手に分らせることが非常に面倒なのだ。それについては実に、長々しい物語があるのだし、又仮令その煩しさを我慢して話をして見た所で、私の話のし方が下手なせいもあろうけれど、聞手は私の話を容易に信じてはくれない。大抵の人は「まさかそんなことが」と頭から相手にしない。私が大法螺吹きか何ぞのように云う。私の白頭と、妻の傷痕という、れっきとした、証拠物があるにも拘らず、人々は信用しない。それ程私達の経験した事柄というのは奇怪至極なものであったのだ。
 
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